その2の最後で、経済的余裕が高校進学率を後押ししたという結論が書いてあるんだけれども、これにプラスして、高度経済成長期の産業構造の変化も密接に関わっているんじゃないか思うんです。
日本の産業構造は、戦後から今までにかなり変質しています。
昭和25年頃だと、第1次産業40%、第2次産業25%、第3次産業35%ぐらいの比率なんだけども、これが昭和50年頃には15%、35%、50%ぐらいになって、今だと5%、25%、70%ぐらいになってる。第2次産業はそこまで大きく動いてないんだけど、1次と3次の比率の変化はとんでもないことになってる。この産業比率の変遷と高校進学率の増加は、どっちが先に動き出したのかは分からんけど、大きな連関性があると思う。
イギリスの産業革命期には、エンクロージャーによって農地を奪われた農民が都市に流入し労働者となり産業革命に必要な労働力を提供したなんていう説がありますが、日本の高度経済成長期においては、高校を出た人間が地元の農地を捨てて都市に流入して第3次産業の労働者となったんじゃないですかね。地方の場合と都市の場合で違うと思うけど。
第1次産業から第3次産業への転換は、それまで第1次産業に従事してきた人の子供が、日本が学歴社会化していく中で学歴によって職業決定が為されるようになった結果、「学歴を求めざるを得ない」状況に陥ったんじゃないかと考えられます。学校での業績によって将来が決まってしまう社会になってしまったが故に、過度に学歴社会が進行してしまったんじゃないかと。
そもそも、「企業に就職する」という概念自体が、日本旧来の職業体系の破壊をなくしては有り得ない話です。学歴社会になっていく過程は、国民が賃労働体系に組み込まれていく過程をそのまま意味するのではないかと思うんです。学歴を需要するということは、どこかに就職するときに便利であるから需要するわけであって、就職しないんだったら学歴なんて関係ないはず。
よく「職業に貴賎はない」という言い方をするんだけども、その根底に横たわる職業差別を支えているものは、職業決定が学校での実績によって大きく方向付けられるという事実なんじゃないかね。
「アイツはバカだから高校に行けなかった。だから○○にしかなれない」という意識が生まれるのは、学歴によってある程度職業が決まってしまう世の中だからなのではないかと思います。高校に行けなかった人の低能力具合をバカにするのは許容するとしても、職業そのものがバカにされるというのは芳しい事態ではないと思うね。
身分によって職業が決定される時代においては、職業をバカにする際に引き合いに出されるものが身分であったけれども、現在ではそれが学歴に変わったというだけの話なのかも知れん。
***
今までの話をまとめると、日本は明治以降、生まれ持った身分によって死ぬまで拘束された社会から、学校での成功によって将来の成功が示される社会に変遷してきたということになります。この「学校での成功によって将来の成功が示される社会」のことを、東京大学教育学部の苅谷剛彦教授は「大衆教育社会」と呼び、特徴として以下の3点を述べています。(出典:『大衆教育社会のゆくえ』苅谷剛彦)
大衆教育社会の第一の特徴は、「教育が量的に拡大し、多くの人々が長期的にわたって教育を受けることを引き受け、またそう望んでいる社会」であること。これは端的に言えば、高校進学率なり大学進学率なりによって容易に示すことができる。
第二の特徴は、「メリトクラシーの大衆化状況」と呼ぶ状態になっていること。メリトクラシーとは、能力と努力の結果である「メリット(業績)」を基準に、報酬の分配や社会的な地位が決まるしくみのことであって、人が「何であるか」ではなく、「何ができるか」「何ができたか」が重要な選抜の基準となる。したがってメリトクラシーとは、「業績主義」を社会の選抜の原理とする社会であるということができる。
第三の特徴は、大衆化したメリトクラシーを通じて選び出される「エリート」の特質にかかわるものである。特定の社会階層の文化との親近性をそれほど強く持たず、大衆教育が実現するメリトクラシーを通じて選び出される「エリート」は、「学歴エリート」と呼べる存在である。
第一の特徴と第二の特徴に関しては、上の話のなかに出てきてるけども、第三の特徴は特に出てきてないです。これは第二の特徴と類似する(派生する?)もので、身分ではなく業績によってエリートが選出されることになるから、本来「エリート」が持っているべき資質を備えない人間が、国家の中枢に携わることになりうるということです(と思いますw)。
教育を通じて選び出される「学歴エリート」は、大衆文化に染まった、大衆の中に染まった「優等生」にすぎなくなっているのではないか、という指摘がなされています。それがいいか悪いかという話は別問題ですけどね。
ちなみに、上で書いた「高度経済成長期の産業構造の変化」についても、『大衆教育社会のゆくえ』のなかには書かれています。「農業の世襲率の変化」「農業就業人口と高校進学率の推移」「新規学卒農家子弟の就農率と高校進学率の推移」と言ったデータを挙げて、農民が学歴社会に組み込まれていく様子を叙述しています。
この「産業構造の変化と高校進学率の連関」に関しては、一応俺がオリジナルで考えたつもりなんだけど、調べてみたらやっぱり同じようなことを書いている人がいますね。パクったわけじゃないですよw
で、この本には、1960年代には農林漁業の収入とそれ以外の産業の収入の格差が2倍以上になっていて、それが農民層の解体を加速させたということが書かれています。やはり進学行動の根拠は収入格差がネックになってくるんでしょうかね。なんだかんだ言ってお金は大事ですからね。
日本の産業構造は、戦後から今までにかなり変質しています。
昭和25年頃だと、第1次産業40%、第2次産業25%、第3次産業35%ぐらいの比率なんだけども、これが昭和50年頃には15%、35%、50%ぐらいになって、今だと5%、25%、70%ぐらいになってる。第2次産業はそこまで大きく動いてないんだけど、1次と3次の比率の変化はとんでもないことになってる。この産業比率の変遷と高校進学率の増加は、どっちが先に動き出したのかは分からんけど、大きな連関性があると思う。
イギリスの産業革命期には、エンクロージャーによって農地を奪われた農民が都市に流入し労働者となり産業革命に必要な労働力を提供したなんていう説がありますが、日本の高度経済成長期においては、高校を出た人間が地元の農地を捨てて都市に流入して第3次産業の労働者となったんじゃないですかね。地方の場合と都市の場合で違うと思うけど。
第1次産業から第3次産業への転換は、それまで第1次産業に従事してきた人の子供が、日本が学歴社会化していく中で学歴によって職業決定が為されるようになった結果、「学歴を求めざるを得ない」状況に陥ったんじゃないかと考えられます。学校での業績によって将来が決まってしまう社会になってしまったが故に、過度に学歴社会が進行してしまったんじゃないかと。
そもそも、「企業に就職する」という概念自体が、日本旧来の職業体系の破壊をなくしては有り得ない話です。学歴社会になっていく過程は、国民が賃労働体系に組み込まれていく過程をそのまま意味するのではないかと思うんです。学歴を需要するということは、どこかに就職するときに便利であるから需要するわけであって、就職しないんだったら学歴なんて関係ないはず。
よく「職業に貴賎はない」という言い方をするんだけども、その根底に横たわる職業差別を支えているものは、職業決定が学校での実績によって大きく方向付けられるという事実なんじゃないかね。
「アイツはバカだから高校に行けなかった。だから○○にしかなれない」という意識が生まれるのは、学歴によってある程度職業が決まってしまう世の中だからなのではないかと思います。高校に行けなかった人の低能力具合をバカにするのは許容するとしても、職業そのものがバカにされるというのは芳しい事態ではないと思うね。
身分によって職業が決定される時代においては、職業をバカにする際に引き合いに出されるものが身分であったけれども、現在ではそれが学歴に変わったというだけの話なのかも知れん。
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今までの話をまとめると、日本は明治以降、生まれ持った身分によって死ぬまで拘束された社会から、学校での成功によって将来の成功が示される社会に変遷してきたということになります。この「学校での成功によって将来の成功が示される社会」のことを、東京大学教育学部の苅谷剛彦教授は「大衆教育社会」と呼び、特徴として以下の3点を述べています。(出典:『大衆教育社会のゆくえ』苅谷剛彦)
大衆教育社会の第一の特徴は、「教育が量的に拡大し、多くの人々が長期的にわたって教育を受けることを引き受け、またそう望んでいる社会」であること。これは端的に言えば、高校進学率なり大学進学率なりによって容易に示すことができる。
第二の特徴は、「メリトクラシーの大衆化状況」と呼ぶ状態になっていること。メリトクラシーとは、能力と努力の結果である「メリット(業績)」を基準に、報酬の分配や社会的な地位が決まるしくみのことであって、人が「何であるか」ではなく、「何ができるか」「何ができたか」が重要な選抜の基準となる。したがってメリトクラシーとは、「業績主義」を社会の選抜の原理とする社会であるということができる。
第三の特徴は、大衆化したメリトクラシーを通じて選び出される「エリート」の特質にかかわるものである。特定の社会階層の文化との親近性をそれほど強く持たず、大衆教育が実現するメリトクラシーを通じて選び出される「エリート」は、「学歴エリート」と呼べる存在である。
第一の特徴と第二の特徴に関しては、上の話のなかに出てきてるけども、第三の特徴は特に出てきてないです。これは第二の特徴と類似する(派生する?)もので、身分ではなく業績によってエリートが選出されることになるから、本来「エリート」が持っているべき資質を備えない人間が、国家の中枢に携わることになりうるということです(と思いますw)。
教育を通じて選び出される「学歴エリート」は、大衆文化に染まった、大衆の中に染まった「優等生」にすぎなくなっているのではないか、という指摘がなされています。それがいいか悪いかという話は別問題ですけどね。
ちなみに、上で書いた「高度経済成長期の産業構造の変化」についても、『大衆教育社会のゆくえ』のなかには書かれています。「農業の世襲率の変化」「農業就業人口と高校進学率の推移」「新規学卒農家子弟の就農率と高校進学率の推移」と言ったデータを挙げて、農民が学歴社会に組み込まれていく様子を叙述しています。
この「産業構造の変化と高校進学率の連関」に関しては、一応俺がオリジナルで考えたつもりなんだけど、調べてみたらやっぱり同じようなことを書いている人がいますね。パクったわけじゃないですよw
で、この本には、1960年代には農林漁業の収入とそれ以外の産業の収入の格差が2倍以上になっていて、それが農民層の解体を加速させたということが書かれています。やはり進学行動の根拠は収入格差がネックになってくるんでしょうかね。なんだかんだ言ってお金は大事ですからね。