☆耀良☆の独白

あきらのどくはく。 人の夢と書いて「儚」。 色即是空。空即是色。

青春への悲願

 こないだ買った本(「青春の道を求めて―高校生活の探究」大野 健二)に、非常に良いことが書いてあったので紹介しておきます。長くて堅いんですが、「まさにこれこそ教育の真の姿である」と感じました。

 では引用、というか転載。


青春への悲願―――高校生活の矛盾とその克服

 愛知県立旭丘高等学校生徒会誌「旭苑」第4号編集委員会の、「高校生活をいかに送るべきか」という特集「現代高校生活の諸問題」の依頼に応えて執筆したもの。

 青春は人間精神にとって門である。青春時代、高貴な行動によって高貴な魂を形成した者のみが、その高貴な精神に導かれて、人間の真義に向かう道を生涯歩み続け得るのである。穢れなき高く貴き魂と、絶対に真なるもの、善なるもの、美なるもの、聖なるものへの限りなき憧憬、それらへのひたむきな情熱と真摯な努力、これら人間精神の逞しきエネルギーは、すべて青春時代にその源泉を置くものであり、私たちが生涯を貫いて決して失いたくない高貴な人間精神の神髄なのである。
 高校生活は、かかる高貴な人間精神の神髄を養うべき青春時代の、第一のしかも恵まれた門である。私たちは現在、その恵まれた、精神鍛錬にふさわしい場を得て、青春時代を送り得る幸せを何よりもまず限りなく感謝しなければならない。なぜなら、そのような謙虚な態度にしてはじめて、その中から真に正しい学習態度や生活態度が生まれるのであり、真に高貴な魂も養われるからである。
 優秀な高校生としての誇りや自尊心、あるいは優越感などが、万一、このような人間的な謙虚な諸態度を失わしめ、あるいは高貴な魂がそれにふさわしい日常の高貴な行動によって支えられてのみ価値あるものであり真実のものとなることを忘れさせ、したがってまた、行動として表れない高貴な魂や自尊心は、浅ましい妄想であり、最も下劣な精神であることを忘れさせて、単に出世主義的な、利己的な態度や考え方の中で、高校生活を送って行くとしたならば、おそらくそのような者にとって、青春時代――高校生活は、むしろ一生の間後ろめたい門として、その人に生涯残るという寂しい時が、いつか来ないではおかないであろう。
 私たちがこのような謙虚な人間的諸態度の中で、高貴な魂を養いつつ、青春時代、高校生活を意義深く送るためには、私たち職員、生徒の間で、常に謙虚な自己批判と、逞しい相互批判とがなされなければならないと思う。ここでは、現代高校生活の諸問題の中、当面の基本的な問題について、ごく概念的であるかもしれないが、本質論的な立場から述べようと思う。

 第一の問題は学習態度の問題である。
 一体、私たちは何のために勉強しようとするのであろうか。大学に入学するためなのであろうか。かつまた、自己一身一家の名利のためなのであろうか。蓋し、大学入試に合格すればよいという目的のためにのみ取り組まれた勉強――「入試問題の傾向と対策」的な勉強、そのような勉強は、一見、それらの目的のためには有効な勉強法に見えるに相違ない。しかしそのような学習態度は、試験に合格すればよいという、学問の本当のものを忘れた便宜的な学習態度であり、そのような態度で学生生活を送った者が社会へ出れば――それでなくても教室で習ってきたことを、文字通り守っていては世渡りに通用せず、むしろ忘れた方が立身出世や金儲けに早道な、歪んだ現代の社会の中では、そのような便宜的な小手先的学習態度の彼らが社会へ出たとき――彼らは忽ちにして、学校で学んだ真理を忘れ、真理を熱愛し真実を熱愛する精神をも失って、歪んだ現代の社会の矛盾にも忽ちに同化し、数年前の優等生が、今は麻雀やパチンコや宴会に毎夜を送る「○○族」になり、××大学卒業という肩書だけが、哀れに名残をとどめるような状態になるであろう。
 なるほど、受験対策的な勉強を余儀なくさせる現在の学校教育や、教育体系そのものにも一半の責任があるに相違なく、その点大いに批判されなければならないのであるが、もっと根本的にいえば、そのような世俗的な、歪んだ学校教育ないし教育体系のあり方に、充分抵抗できるほど強力な勉強の仕方がなされていないことが、反省されなければならないと思う。然らば、世俗的な教育に抵抗できるほど強力な勉強は、どのようにして生まれるであろうか。また一方、入試対策的勉強法の欠陥は、根本的にいって、私たちが一体何のために勉強するのであるかという前述の課題に対して、正しい目標を掴んでいないことにある。ではその強力な勉強を生み出す正しい勉強の目標とは一体何であろうか。
 学問の体系が、人間精神の歴史であり、過去数十世紀の全人類の精神の集積であって、私たちはそれらの力によって、現代生活を営んでいるのであること、そして私たちがそれらを受け継ぎ、それらを発展させることによって、私たちを含めて人間全体の幸福が発展するということ、したがって私たちの勉強も、そのために行われており、それ故に、一層しっかりとした勉強をしなくてはならないということ、――それらが本当に理解されているのでなければならない。それらが真に理解されたとき、どのような人生が真に偉大であり、どのような業績が真に価値あるものであるかが明確になり、私たちの勉強が、何のために、またどのようにあらねばならないかも明白になるであろう。こうした態度の中では、今日の学問を形成した幾多の偉大な文人・科学者・芸術家たちの崇高な生涯とその精神とは、私たちの学習に大きな力を与えてくれるに相違ないし、そうした感動と情熱の中で、私たちは私たちなりに学問の中へ入って行き、学問する楽しさを知ることができるのである。
 このような貴重にして不可欠な体験は、「入試対策的な勉強法」の中では決して得られるものではない。即ち「入試対策的な勉強法」は、根本が便宜的なものであるだけに、自分が本当に学問の中へ入って行くというのでなく、外から取り組んでいこうとするやり方なのである。もっと言えば問題を、誰よりも自分自身の問題として、自分の内から、自分に向かって問いを発して、それに迷いもし悩みもし、あるときは躓きもしながら、自分なりの答えを出していこうとする勉強ではなくて、これだけのページを読めば、これだけの答えをこの参考書なり問題集なりが与えてくれ、これだけの時間、講義を聴けばこれだけの答えを、この補習授業なりが与えてくれるという勉強の仕方なのである。さらに言えば、他人が考えたことを借りてこようとするやり方なのであって、その故にこそ、学問が身についた力にならないのであり、したがって、学問を今日の整然たる素晴らしい体系に築き上げた数々の聖学徒たちの崇高さや俸大さへの感動も感ずることなく、また学問そのものの美しさ、その素晴らしい魅力も、また学問するその真の喜びもわからぬままに、ただ大学入試に合格し、大学を卒業し、よい会社に就職しさえすれば、万事終わり、というような、ただそれだけのものになって終わるということになりかねない。
 そこには人間と学問、学問と社会といったもの相互の結合も統一もなく、青春の高貴な精神は、世俗的な勉強方法を通じて、知らず知らず穢され、俗物入手の代償として売り渡されてしまうであろう。したがって私たちは、いつでも既成のものに頼り、ただやたらに詰め込むという勉強法でなしに、常に一度白紙に返って、幾多の先哲が進んだ学問の道を、また再び何もかも疑いながら、正直に自分の心を自分で問い詰め、自分自身の問題として、自分自身の責任と努力において、書物や他人の意見、説明などを手掛かりとしながら、常に根本は自分に問い、自分から答えていくやり方をとらねばならないと思う。そのような学習態度は、前述のように、利己的な目的だけからは決して生まれてこないものであり、同時にまた、これは次に述べる生活態度の問題にも関わってくる本質的な学習態度なのである。

 第二の問題、その生活態度の問題について述べよう。
 高等学校における前述の「入試対策的な勉強」は、真の学習態度を歪め、学問のあり方を歪めているだけでなくて、学校生活そのものはもちろん、人間そのものまで歪めていこうとしていることに注目しなければならない。生徒会やクラブやクラスの諸活動への消極的態度は、その端的な表れであり、生徒会の会合から逃避し、クラブ活動から脱出し、果てはクラスの清掃作業まで逃亡するという事態を惹起している。クラスの中で、所謂成績の良い者が掃除当番を逃亡するという事実は、何というべきか、その言葉に窮する唾棄すべき行為であるが、このような者を徹底的に粉砕していかないとしたら、生徒会は何をもって立ち、学校は何をもって立つべきであろうか。
 学校生活の中で、みんなのために働くことを逃亡するような者は、社会へ出ても他に奉仕することから逃避し、あるいは組合の仕事を逃亡し、同士に背くような人間になりかねないであろう。彼がいかに高校時代に首席であろうが、いかに入試対策的な勉強に成功して国立大学に合格しようが、このように青春の高貴な魂を悪魔に売り渡した人間を、私たちは少しもうらやむ必要はないと思う。私たちはもっと気高いもの、あの高貴な、しかも逞しいスポーツ精神にあるところの協力と闘志との統一を、生涯持ち続けなくてはならないのである。
 私たちの学校には「一中精神」という古い伝統が、今継承されようとしている。それは「何事でも一番になる」「必ず勝つ」という精神と伝えられる。.そのような闘志ある精神もまたある意味では立派であるに相違ない。しかし、その精神は従来多分に旧い立身出世主義と結合しやすかったものであり、ややもすれば利己的な独善的な生活態度を誘導するものであった。現代の私たちが、このような歴史的複合を持つ、旧時代的な「一中精神」なるものを単純に継承するとしたら、それは我々が新しい時代に生きていることにはならないであろう。私たちは「一中精神」の中にある不屈の闘志を受け継ぎながら、「何でも一番になる」主義からさらに前進し、「みんなで考え、みんなが力を合わせて、みんながよくなる」という、新しい時代の新しい理念に立って、新しい旭丘高校の伝統を生み出さなければならないと思う。
 本当の生活態度、学習態度は、古い「一中精神」を乗り越え、「入試対策的な勉強」を克服するところに出発し、学問を各自が自分自身の問題とし、みんなが積極的に学問に働きかけていく新しい学風を創り出すところに、それは本当のものとなり、闘志と協力との統一の中で、旭丘高校の優れた伝統が生まれなければならない。そうなってはじめて、単に国立大学へ何名合格したということに汲々とし、それをもって学校の栄誉とするような世俗的伝統のみでなしに、それ以上のもの、――社会の進歩に、人類の幸福に役立つ人間を、どんなに多く生み出したかを学校の栄誉とするような、高貴にして偉大な伝統が創られるであろう。

 青春は人間精神にとって決定的な門である。私たちはこの門を、今こそ高貴な真剣な学習態度と生活態度とに貫かれた高校生活を送ることによってくぐらねばならない。それは自分一人の門ではない。自分一人の力では開かれない門である。みんなが力を合わせて、みんなの力を結集して、はじめてその扉を押し開き、みんなが肩を組み、腕を組んで通ることができる、そのようにして通ってこそ、はじめて真にみんなを鍛え、みんなを真に次の時代を背負う立派な人間としてつくるところの、広くて力強い偉大なみんなの青春の門なのである。(昭和30年2月 旭丘高等学校生徒会誌「旭苑」第4号)

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 この文章はどうやら今から50年以上前に書かれたらしいですが、状況が今と何にも変わっていないことが驚きですね。
「入試問題の傾向と対策」的な勉強、そのような勉強は、一見、それらの目的のためには有効な勉強法に見えるに相違ない。しかしそのような学習態度は、試験に合格すればよいという、学問の本当のものを忘れた便宜的な学習態度であり、そのような態度で学生生活を送った者が社会へ出れば――それでなくても教室で習ってきたことを、文字通り守っていては世渡りに通用せず、むしろ忘れた方が立身出世や金儲けに早道な、歪んだ現代の社会の中では、そのような便宜的な小手先的学習態度の彼らが社会へ出たとき――彼らは忽ちにして、学校で学んだ真理を忘れ、真理を熱愛し真実を熱愛する精神をも失って、歪んだ現代の社会の矛盾にも忽ちに同化し という部分が、特に現代においてもそっくりそのまま当てはまると言えるでしょう。
 戦後60年以上が経過し、大学紛争・学生運動を経てきたにもかかわらず、根本的な部分は何も変わっていない。「結局何も変わらないのか」という無力感を感じざるを得ません。むしろ、更に悪化してしまった感じが否めませんね。どうしたらいいんでしょうね。恐らくこの先生の答えは、そのような世俗的な、歪んだ学校教育ないし教育体系のあり方に、充分抵抗できるほど強力な勉強をすることでしょう。

 また、この先生が、離任式において話された音声が残っているようなので、ご紹介しておきます。某人からの受け売りですけどね。感動したので載せておきます。【mp3】

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コメント


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僕も高校在学中にもっとこうした教えを忠実に守るべきだったと今更乍ら後悔しています。
然し、生徒はおろか教師さえも本質を見失っている今の状況は何とも嘆かわしい限りですね。

441 | URL | 2008年07月25日(Fri)20:26 [EDIT]


教師自身も、「世俗的な、歪んだ学校教育ないし教育体系」の中で学んできたからなんでしょうね。それが当たり前だと思っている。

Akira | URL | 2008年07月25日(Fri)23:45 [EDIT]


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| | 2008年08月01日(Fri)19:38 [EDIT]