☆耀良☆の独白

あきらのどくはく。 人の夢と書いて「儚」。 色即是空。空即是色。

福田君を殺して何になる & 同窓会2009

 先回の更新から1ヶ月ぐらい経ってしまいました。最近は全てにやる気がないので、時間があっても更新しないんです。

 あっという間に秋を通り越して冬になってしまいました。11月22日です。やる瀬無い思いがあります。

 さて。もはや読んだ事実も忘れかけていますが、「福田君を殺して何になる―光市母子殺害事件の陥穽―」を読みました。amazonで売ってないので、出版社のサイトで直接買いました。
 この事件に関しては、橋下大阪府知事が「そこまで言って委員会」のなかで「懲戒請求をかければいい」なんて言った結果、2chねらーの類が大挙して懲戒請求をかけるなんていう経緯もありましたが、この本はそう言った点に大きく言及はせず、主にこの少年やその周りとのやり取りが掲載されています。

 本の冒頭に載せられている福田君からの手紙【別窓で表示】を読むと、明らかに何らかの障害を持っていることが分かります。そういう理由でもって減刑しろだとか何だとか言うつもりは俺はありませんが、みんなで揃って懲戒請求をかけるというのも大人げない話です。

 少し話が逸れますが、今日の朝日新聞に、最近流行の事業仕分けの話が載っていました。その対象事業の中に、「心のノート」があがっていました。

 02年度から学校に配布されている道徳教材「心のノート」も議論に。現行の中学校版には特大文字で「この学級に正義はあるか!」と書かれたページがあるが、民間仕分け人の一人は「正義を振りかざすことがどれほど危険か」「教条的な決めつけが多く、『あるべき心の見本市』ですごく気持ち悪い」と言った。

 仕事柄、家に「心のノート」(19年度版)があったので、見本を載せておきますw


 正義なんてものは一種の宗教ですから、他人に押しつけるものではないんですよ。
 感情的になって死刑にしろだの懲戒請求だの騒いだところで、それは結局個々人の価値判断でしか無くて、恒常的普遍的なものではないはずなんです。

 しかも、この本を読むと、この事件に関する死刑判決というのはかなり強引に形成された世論によるものなんじゃないかと思ってしまうわけです。別にこの犯人の肩を持つわけではないですが。

 なかなか面白い本なので買って読んでみると良いかもしれません。


***


 去年も開催した高校3年次の同窓会を、今年も開催することになりました。
 人数に関しては、今年も去年と同様40人中30人程度が出席する予定だそうです。今年は多くの人が社会人として働いているので、出席者がかなり減るんじゃないかとも思いましたが、その点については問題なかったようです。年末の同窓会なので会場を抑えるのもなかなか難しいですが、去年と同様、2ヶ月前に抑えておけば余裕です。

 それよりも何よりも面倒くさいのが、クラス40人に連絡を取るのが面倒くさい。
 【去年】 も書きましたが、クラス全員に遺漏なく連絡をするのが俺のモットーなので、今回も実家に葉書を出して、そこに書いてあるアドレスに返信してもらう形式にしました。

 こんな葉書です。


 今どき葉書で連絡するのもどうかと思わないでもないですが、「メールで来るよりも葉書の方が参加する気になる」という声があったので、それを受けて葉書でやっているわけです。

 まず最初のエラー。実家に送っているはずの葉書が帰ってきたのが1件。
 実家が引っ越したのかと思って本人に電話して聞いてみたら、「郵便局の居住人名簿に俺の名前が書いてない」から俺に返送されたらしいです。だったら転居届出して下宿に転送されるようにして貰えばいいのに! 自分宛の郵便物全部差出人に還付されるじゃんかw

 次、締め切りまでにメールの返信がないのが10件ぐらい。
 これは本人に催促すれば問題ない。

 次、こっちからのメールが相手に届かない。
「今後の連絡は、このアドレスから行うので、拒否設定等の解除をしておいてください。」と書いてあるにもかかわらず拒否解除されてない。これが40人中10人ぐらい。
 こういうのがあるからメールの連絡は嫌いなんですよ。届いたかどうか分からない。送った方も送られた方も分からない。っていうかそもそもPCメールを拒否する意味が分からん。馬鹿なんじゃないかと思うね。

 まあそれでも来ていただかないといけないので、相手に合わせてどうにか連絡を取るしかないですね。

PageTop

学校自治

 先週出ていた社説なんですが、うっかり読み飛ばしていたようなので、今更ながら記事を書きます。


朝日新聞 社説 21.10.19

新政権の日本


「学校自治」に変えてゆこう

 こんな話を聞いたことがある。
 ある小学生の母親が、子どもに給食ではなく弁当を持たせたいと考え、担任の先生に相談した。
「私の一存では決められない」と担任。校長は「教育委員会に尋ねてみないと」と言葉を濁した。市教委は「県教委に」、県教委は「文部省(当時)に聞いてほしい」と答えた。
 文部省に電話した。 「いや、それは教育委員会が判断なさることで……」
 結局、この件はウヤムヤになった。

 教育の「55年体制」
 文部科学省が教育委員会を通じて、はしの上げ下ろしまでコントロールする。学校は何も決められない。一方で文科省、教委、学校のどこが最終的に責任を持つかはあいまい――。
 極論すれば、これが長く続いた教育の「1955年体制」だった。
 戦後教育は、学校が軍国主義に取り込まれた反省から出発した。1947年にできた旧教育基本法は、政治や官僚機構の介入に歯止めをかけようとした。教育行政は、住民が選挙で選ぶ教育委員会に委ねられた。
 だが、この精神は早くから骨抜きになる。自民党結党の翌56年、教育委員公選制が廃止され、かわって地方教育行政法が制定された。文部省が「指導・助言」という形で実質的に教委を縛る仕組みが、できあがった。
 文部省の施策には自民党の文教族が影響力を持った。日教組との対立が激しく、そのためにも、教育現場を上から押さえつける必要があった。
 中央集権型の教育システムは、戦後日本の高度成長を支える機能は果たした。産業社会は多くの優秀な人材を求め、親は子に学歴をつけさせようと必死になった。文部省は画一的な手法で、教育の大衆化を進めた。

進行していた危機
 ところが、その裏で進行していた病が、やがて教育のゆがみとして指摘されるようになる。受験戦争の弊害、荒れる学校、90年代に噴出したいじめや不登校……。00年ごろからは学力低下が叫ばれた。
 ときどきの自民党政権は様々な改革を繰り出した。最大の問題は、システムの土台に手をつけなかったことだ。
 上意下達の教育行政は、第一に深刻な「教師の危機」をもたらした。
 ピラミッド型組織に組み込まれ、指示に振り回される。生徒を座らせ、プリントをやらせるだけで精いっぱい。「子どもに向き合う時間がとれない」と悲鳴が上がる。燃え尽き、辞めてゆく教師が増え、サラリーマン化した教師の質の低下も指摘される。
 子どもたちはどうだろう。
 きめ細かな学びが必要なのに、全国一律の物差しでの学力競争に駆り立てられる。近年は、規律や規範が強調されるようになった。
「疲れを感じる」 「自分はダメな人間」とアンケートで答える中高生は、米国や中国に比べ際だって多い。
 鳩山政権は、この「55年体制」にもメスを入れ、地域や学校に大幅に権限を移そうとしている。
 国の役割は、一定の教育水準の維持と、教育環境整備のための財源確保に限定する▽教育行政の責任は自治体の長が負い、教育委員会はそれを監視する機関に改める▽公立小中学校は、保護者、地域住民、学校関係者、教育専門家らが参画する「学校理事会」が運営する――。政権公約や川端達夫文科相の説明によれば、こんな構想だ。
 改革が進めば、文科省のあり方も見直しは避けられない。日本の教育、特に義務教育の風景は、一変することになるだろう。

「学校理事会」を核に
 核となるのは、親や地域が学校づくりにかかわる学校理事会だ。
 地域の実態や子ども一人ひとりに合わせた教育を、ひざ詰めで話し合う。学校行事からカリキュラムの組み立て、教科書選択、校長の人選まで、信頼関係の中で決めてゆく。教師の創意工夫を尊重し、質の高い実践が生まれるよう支援する。そうした「学校自治」が実現するならば、学びの場は大いに元気を取り戻すはずだ。
 学校と地域が連携する試みは、各地ですでに始まっている。教員の人事に意見を言ったり、行事を一緒に考えたり、ボランティアが学校に入ったり。だが、制度的な限界もある。
 学校理事会をお飾りにせず、どれだけ学校運営を任せられるか。理事会をチェックする方法は。地域の学校以外の選択肢をどう確保するか。大変な宿題が山のようにある。
 教育委員会と自治体の長との関係については、熟慮が必要だろう。
 形骸化した教委の現状は、もちろん問題だ。だからといって、市町村長に教育内容の責任まで負わせてしまってよいか。肝心なのは、教育のあり方に地域の人々の意見を反映する仕組みをどうつくるかだ。教育委員公選制の復活を検討してもいい。
 親や地域住民である私たち自身の覚悟も問われることになる。
「公教育は行政から提供されるサービスだ」。そんな意識がはびこっていないか。経済危機が家計や雇用を直撃しているが、私たちが学校づくりを引き受けることは、市民社会を鍛え、豊かにすることにつながる。
 学校自治の実現に向け、国民的な議論を巻き起こしたい。口火を切ることが政治の役目である。<2009・10・19>


***

 結局何が言いたいのかよく分からない社説ですがw、非常に面白い内容だと俺は思うので色々コメントしていきます。

 まず、冒頭の弁当の話。
「学校に行ったら素直に給食食えよ」と俺は思わないでもないですが、アレルギーやら何やらある人もいるので、言い分は分からないでもないです。
 じゃあ誰の判断で弁当持ち込みが可能になるかというと、たぶん担任では無理でしょう。給食の注文・調理は恐らく学校単位で行っているので、少なくとも校長に話をあげて相談する必要があります。
 恐らく暫くの間はそれで問題がないと思いますが、そのうち他の学校でも、この話を聞きつけた保護者が「うちの子も給食が食べられないから弁当にさせたい!」と言ってくるでしょう。そのときに、「○○小学校では弁当でもいいって聞いたけど!」と言われると断りようがない。
 そうすると、「じゃあ、うちでも対応します」という話になってしまうので、「市内の各学校を総括的にまとめる機関」=「市町村教委」の出番になるわけです。
 俺が思うに、ここで話は終わるはずなんですよ。給食なんてのは自治体ごとで制度も中身も違うはずなので、文科省の言い分じゃないけど、「それは教委が判断すること」だと思います。市町村の教委が決めればいいだけの話。
 だからこの話は、市町村教委から都道府県教委に上がってきた段階で「お前が決めろよ」って言ってやれば押し返してやれば良いだけの話がしますけどね。
 鬱陶しい話をどっかに転嫁させようとしただけだと思われます。

 で、そんな話は置いておいて、この弁当の一件を、『教育の「55年体制」』だの『進行していた危機』だのの話に持って行くのはいかがなものかと思うわけです。
 まずそもそも、この記事は「教育委員会」という単語を非常に曖昧に都合良く使ってるんですよ。何を指しているのかが曖昧。

「教育委員会」と一言で言っても、狭義の教育委員会と広義の教育委員会は意味が違います。
 狭義の「教育委員会」というのは、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」第3条に「教育委員会は、五人の委員をもつて組織する。」と規定されているように、各地方公共団体に原則5人ずつしかいません。原則としては、この5人が地方自治体における教育行政を担っているわけです。
 当たり前の話ですが、5人で教育行政全般を取り仕切るのは不可能なので、教育委員会の下に「教育委員会事務局」(同法第18条)という組織があります。あくまで最終的な責任が教育委員会にあるだけであって、仕事はほとんど事務屋がやっているわけです。
 これは、憲法65条に「行政権は、内閣に属する。」と書いてあるけども、いわゆる「内閣」にいる大臣だけで「行政」を行うのは不可能なので、実際に行政事務を行っているのはいわゆる官僚をはじめとする国家公務員や地方公務員というのと同じだと俺は思っています。
 狭義の「教育委員会」は常に会議が開かれるわけではないし、毎月の定例会と臨時会ではあくまで重要事案だけ会議するのであって、日常の事務作業や瑣末な事案はほとんど全てが「教育委員会事務局」の事務屋によって処理されるわけです。
 だから、今回の弁当云々の話は、「瑣末なこと」だと判断されれば、「委員会」の議題にあげられることなく、事務局の事務屋レベルで是否が決められてしまいます。この社説の本文の大部分では狭義の教育委員会について話をしているのに、冒頭の給食の話だけ何か浮いたような感じを受けるのは、その辺の語義が曖昧だからだと思います。

 では、本文について。
 戦後の一時期、「教育行政は、住民が選挙で選ぶ教育委員会に委ねられ」ていたのは歴史的事実です。感覚的に言えば、いわゆる「(国務)大臣」=「閣僚」を選挙で選んでいたようなものです。今は自治体の首長が勝手に任命しています。

>中央集権型の教育システムは、戦後日本の高度成長を支える機能は果たした。産業社会は多くの優秀な人材を求め、親は子に学歴をつけさせようと必死になった。文部省は画一的な手法で、教育の大衆化を進めた。
 という部分に関しては、俺の 【卒業論文】 で述べたとおりですw

 次の進行していた危機という章は、文全体から朝日新聞臭がするのであんまり突っ込みたくありませんが、「地方自治」をするという観点で言えば、「国の役割は、一定の教育水準の維持と、教育環境整備のための財源確保に限定する▽教育行政の責任は自治体の長が負い、教育委員会はそれを監視する機関に改める▽公立小中学校は、保護者、地域住民、学校関係者、教育専門家らが参画する「学校理事会」が運営する――。」というのは非常にいいと思います。
 でもなかなか難しいと思うんですよ。一番の問題は「公教育は行政から提供されるサービスだ」という市民の意識です。
 本来の「自治」というのは読んで字の如く、「自ら治める」ということなので、公教育も「提供される」ものではなくて「一緒に作り上げていくもの」であるはずなんですよ。昨今言われるモンスターペアレンツなんていうのはその典型みたいなもので、「客が店に文句を言って何が悪い!」という態度でもってお客様然としていたら、自治なんていうものは不可能なんですよ。まずは市民の意識を変えていく必要があると思うんです。
 その点で、今の日本でこういった取り組みをするには、まだまだ民度が低いのではないかと思ってしまうわけです。

 あと、この社説では同列のように語っていますが、学校理事会の問題と形骸化した教委の問題はあんまり関係ないんじゃないかと思うんですよ。教委は教委で残しておいて、学校理事会を新たに作れば良いだけの話で。学校理事会って言うのは、学校の運営方針をある程度学校独自で決定することができるようにする機関であって、近隣の学校に力が波及するものではないと思うんです。教委はあくまで自治体ごとなので、力の及ぶ範囲が違うんじゃないかと。
 国の例で喩えれば、「地方分権を推進すること」と、「官僚主導から閣僚主導への転換」というのは同列に語れないと俺は思いますからね。

 また、この記事では教委事務局についてはあんまり触れられていませんが、俺は事務局も変えていったらいいと思うんですよ。たとえば、学校関係者が事務局の中に少ないので、もっと交流を多くするとか。
 教育委員会事務局の採用試験というのはないので、地方自治体の行政職試験を受けた人の中で、たまたま教委事務局に配属された人たちであるだけなんです。教員免許を持ってない人も沢山いるので、もっと教育に興味を持った人が増えると良いかもしれません。

 いつもながら尻切れトンボですが、今回はここまで。

PageTop

雑記 20091025

 こないだ職場の同期と某カラオケ屋に行ったら、会員価格と一般価格のあいだに大きな乖離があったので、仕方なく会員カードを作ることにしました。
 そのカードにはEdy機能がついていました。俺は既にEdy付きカードを2枚も持っているのでそんな機能は要らないんですが、どうも日本人はなんでもかんでも多機能化すればいいと思っているようです。

 数日後、コンビニのレジでEdy払いをしようと思ったら、エラーが出るんですよ。
 前々から持ってたEdy付きクレカと、新規に作ったカラオケ屋のカードが干渉してエラーを起こしてるんですね。「財布や定期入れに入れたままでタッチできる!!」とかなんとか言っておきながら、2枚以上入ってると互いに干渉してエラーを起こすのは辞めて欲しいです。財布には色々入ってるんですよ!

 そもそも、カードに余計な機能を付けないで欲しいんです。会員カードは会員カードとしてのみ機能すればいいんです。もしくは、EdyありとEdyなしの両タイプのカードを作ってほしいものです。


***

朝日新聞 声 20091022

無職 42歳

「人間関係うまくいかないのが当たり前」「転ばない生き方より転んでも起きあがる人生がいい」。書家・相田みつを風の毛筆書きです。こんな文章を書いたはがき大の色紙が地元のハローワークの就職相談窓口の机に敷かれていました。ふざけた話です。
 私は東京での生活に見切りをつけ昨年に帰郷しました。駐車場は満車で、ごった返すハローワークに連日のように通っていますが、なかなか仕事が決まりません。そんな折に目にした色紙です。「リストラや倒産で気分が落ち込んでいる時に、気分を害しても感動する求職者はいないでしょう」と窓口職員に撤去を求めました。すると、「上の者に話します」と職員。翌日、色紙はそのままでした。
 人間関係がうまくいかず病気になって離職したり、自殺したりする方々がいる現実を知っていれば、あのような色紙は飾らないはずです。高慢なお役所を象徴するような色紙でした。【以上転載】


 これはなかなか面白い投稿だと思います。

 この無職のオッサンの言い分も分からないでもありません。
 相田みつを「風」と言っているので、本当に相田みつをの作品かも知れませんし、職安の職員が真似して書いただけかも知れませんが、実際に人間関係がうまくいっていない人や転んでしまって起き上がれない人を前にして、「臭い言葉を並べておけば勝手に感動するだろう」という傲慢さを持って色紙を置いておくのはふざけた話でしょう。
「きっとあいつらは感動するに違いない。勇気づけられるに違いない」と思っているんですかね。人の気持ちが分かったようなフリをして、更に人を傷つけるような偽善者はなかなかいなくなりません。善意による行動だから余計にタチが悪いんですね。

 ただまあ、このオッサンが被害妄想的であるのは否めません。
 この色紙によって感動を覚える人も皆無ではないでしょうし、「感動はしても気分を害す求職者はいないでしょう」という投書もあり得るかも分かりません。
 そもそも、誰かに「リストラや倒産で気分が落ち込んでいる求職者を感動させるような色紙を置け!」と言われて置いたのかも知れません。

 人間というのは起因者に行動如何に関わらず、勝手に感動したり勝手に傷つくことが非常に多いので、気を利かせたつもりでも「高慢なお役所」呼ばわりされるわけですから、役所は役所らしく、何も書かずにおけばいいんですよ。
 何かして怒られるよりは何もしなくて怒られる方が、金も時間も労力も掛かりませんからね。

 俺がこのオッサンの一番気にくわない点は、自分が全市民の代表であるかのような口ぶりであることです。
 憲法を引っ張り出すまでもなく、意見を言うのは自由ですが、自らが唯一の正解であり正義であるかのような主張はいけません。
 あくまで一個人の意見として、 "one of them" として、「私はあの色紙によって不快感を覚えたので、こういう人がいることも理解してくださいね!」というに留めておいた方が良いでしょう。
 さらに、不快感を覚える人がいるからといって撤去する必要があるかどうかは別問題ですしね。それこそ、勝手に感動したり勝手に傷つく人が非常に多いので。


***


『沈まぬ太陽』


 昨日公開の東宝映画、『沈まぬ太陽』を見てきました。前々から原作に興味はあったんですが、読んでいませんでした。山崎豊子の文章はヘビーすぎるので。

 この映画を見ていた多くの人は、恐らく恩地の行動に対して称讃を与えるのでしょうが、俺は「自己の正義を貫くことで、いかに周りの人間の反感を生み、迷惑をかけるか」という視点で見ていました。 俺も自己の意思を貫徹したい人間なので、なんとなく恩地に重なるところがある気がしたんでしょうかね。

 善人にせよ、悪人にせよ、自らの意志を貫き通すことで、多くの人間に迷惑を掛けます。自分一人だけに影響が及ぶならまだしも、他者に迷惑が掛かってしまうのは、あまりいただけた話ではありません。
 仮に「みんなのため」と思って行動しても、それはあくまで自己満足の副産物として、たまたま他者の利益になっているだけの話です。結局は自己満足のネタにしかなり得ません。どこで妥協するかも重要だと思います。恩地は多くを失いながらも、自己の道を進んでいき、それがカッコいい英雄のように画かれていましたが、俺は諸手を挙げて賛同する気にはなれませんでした。
 あと、作品全体で、善悪の区別をハッキリつけすぎているところがあるので、その辺も俺の好みとは合致しませんでした。

 とはいえ、なかなか面白い映画だったと思います。それでも小説は読む気になれませんがw

PageTop

非通知拒否

 たまにはどうでもいい日記を書きますw どうでもいいのに長いw

 我が家のネット回線はKDDIの光回線を使っておりまして、ついでに固定電話も光電話を使用しております。
「我が家にインターネットを引く!」と最初に宣言したのが俺なので、なぜか料金まで俺が払っているという状況で、光電話の料金だけ支払を分離するのが不可能なために、なぜか固定電話の料金も俺が払っているという状況です。

 案外みなさん知らないようですが、KDDIの光電話からは、(一定条件下で)au携帯へ24時間通話無料なんですよ。俺はケチなので、auに架けるときはほぼ固定電話から掛けるんです。さらに俺の携帯はsoftbankなので、夜間を除いてsoftbankに対しては無料通話。タダより安いものはありませんからね。だからドコモには架けたくありませんww

 で、俺がau携帯に対して固定電話から電話を架けるのは問題ないんですが、なぜか相手からかかってくるときも、恐らく着歴から架けてくるからなんだろうと思いますが、自宅の固定電話に架かってくることがままあるんですよ。ちゃんと番号確認して架けてこい、と思うわけです。

 これはメールでも言えることで、俺は携帯のメールが嫌いで、小さい画面でポチポチ打つのが面倒くさくてイヤなので、極力PCでメールを打つんです。すると相手はPCに返信します。
 時間に余裕がある場合はこれでもいいんですが、急を要する連絡もPCに送られてくることがままあります。ちゃんと宛先見て送れよ、と思うわけです。
 そもそも急用なのにメールで連絡するというのが間違ってるとは思いますがw

 何が一番の問題かというと、相手が勝手に「携帯で連絡を取り合っている」と思いこんでいることです。自分が携帯だからと言って、相手も携帯だと思いこむのはいかんね。

 携帯が普及してきたのは事実ですが、全ての連絡を携帯で取っているわけではないわけですよ。
 携帯というのはあくまで連絡をとるための一手段であって、便利ではあるけども非常に限定的なツールに過ぎないと俺は思うんです。携帯が他のツールに比べて優れている点は、「携帯できる」というただ一点のみにおいてであって、他にもっと優れたものが沢山あるんだから、それを選択して使っていくべきだと思います。
 携帯なんて、画面は小さいし、入力も面倒くさいし、料金は高いし、何も良いことがない。

 互いが家にいて電話するんなら固定電話から固定電話に架ければいいんだよ。その方が安い。双方が自宅にいながら携帯で電話しあうのはコストパフォーマンスが悪すぎるだろ。携帯っていうのは長時間話すには向いてねぇんだよw
 互いが家にいてメールするんならチャットすればいいだろ。その方が早い。
 っていうかお前らskype使えよ、skype。メッセンジャーでもいいぞ。ファイルも送れるし、チャットも通話もできるし、そして何よりタダw
 俺はFAXも使わん。スキャンしてメール、もしくは元データをメールで送ればいいだろ。その方がキレイだし加工も保存もしやすい。お前らもっと道具を使いこなせよw


 と、思うわけです。

 そんなこんなで話を戻すと、最近俺は「なぜか相手からかかってくるときも、恐らく着歴から架けてくるからなんだろうと思いますが、自宅の固定電話に架かってくる」のに対抗するために、auに固定電話から架けるときは、最初から非通知で電話をすることにしたんです。これなら着歴を辿って自宅に架かってくることがなくなる!と思ったわけですが、どうも非通知だと電話に出てくれないんですよw もしくは非通知拒否。

 これも何を考えているのかよくわからん。非通知拒否にする意味ってあるの?w
「なんで拒否るんだよ!」って聞くと、「変な人かも知れんから」って言うんだ。お前の電話にはそんなに変な人から電話架かってくるのかww 
 非通知拒否してたら仕事できないじゃん。知らない番号から架かってくることなんかもしょっちゅうあるじゃん。

 ラジオ番組で「当選しました〜! 当選者の○○○君に電話してみま〜す!!」って言って電話すると「番号を通知してお掛け直し下さい」って言われるDJと同じ気分ですね。「残念ながら連絡が取れないのでプレゼントはお渡しできませ〜ん!」ってよく言われていますね。(ラジオ聞かない人は想像できませんかねw)


 俺の経験から言うと、非通知の電話は結構重要な電話だったりすることが多いんですけどね。「とある仕事を、優先順位の高い会社順に電話して、最初に繋がったところに仕事を頼む」というのはよくある話ですよ。
 俺なんか非通知が着歴に入ってたりすると、「うわぁー、デカい仕事を逃したかも知れん!」と思ったりするし、就活の時もリクルーターからの電話は非通知が多かったしね。

 そんなこんなで、ただの愚痴でしたw

PageTop

景観権

記事を2つも持ってくると長くて仕方ないですが、どうせ誰も読まないので問題ないでしょうw

【以下転載】

ポニョの舞台・鞆の浦 工事差し止め判決 景観保護優先
2009年10月1日11時42分
http://www.asahi.com/national/update/1001/OSK200910010026.html

 江戸期の港と町並みが一体で残り、宮崎駿(はやお)監督のアニメ映画「崖(がけ)の上のポニョ」の舞台として全国的な注目を集めた景勝地「鞆(とも)の浦」(広島県福山市)で県と市が進める埋め立て・架橋計画をめぐり、地元住民らが県を相手取り、知事が埋め立て免許を県と市に交付しないよう求めた訴訟の判決が1日、広島地裁で言い渡された。能勢顕男(あきお)裁判長は住民側の請求を全面的に認め、知事に埋め立て免許の交付をしないよう命じた。

 歴史的景観を保護するために大型公共工事の許認可を差し止めることができるかどうかが争われた初めての訴訟で住民側が勝訴した。各地の開発と景観をめぐる紛争に大きな影響を与えるのは必至だ。

 訴訟では、(1)埋め立て・架橋工事により、住民らが鞆の浦の良好な景観の恩恵を受ける利益が損なわれるか(2)事業によって交通が便利になったり、観光客用の駐車場などを整備したりすることで得られる利益が、景観を損なう不利益を大きく上回るといえるか(3)埋め立て免許が出されると回復不可能な重大な損害が生じる恐れがあるか――などが主な争点になった。

 判決はまず、鞆の浦の景観は住民らの利益にとどまらず、瀬戸内海の美観を構成し、文化的・歴史的価値をもつ「国民の財産ともいうべき公益」と指摘し、法的保護の対象になると判断。瀬戸内海の環境保全を趣旨とする「瀬戸内法」によっても公益として保護されていると述べ、景観を侵害する政策判断は慎重になされるべきだとした。

 そのうえで、行政側が実施しようとしている道路や駐車場の整備などの事業に必要性や公共性があることは認めつつ、景観保全を犠牲にしてまでの必要性があるかどうかについては「大きな疑問が残る」とした。さらに、事業が完成した後に景観を復元することは不可能で、事業自体の調査・検討も不十分として、埋め立てを認めることは知事の裁量権を超えており差し止めの対象になるとの結論を導いた。

 県知事は昨年6月、埋め立て免許の交付に必要な国土交通相認可を申請した。金子一義・前国交相は「住民同意ではなく、国民同意が必要」として認可に慎重な姿勢を示し、手続きは事実上停止している。




2009年10月2日 朝日新聞

景観保護優先広がるか

映画「崖の上のポニョ」の舞台とされた景勝地「鞆の浦」 (広島県福山市)。歴史的景観を守るため、この地で計画された工事に広島地裁が1日、ストップをかける判決を出した。景観保護を重く見る流れは定着するのか。大型公共事業にはこれからも、厳しい視線が注がれそうだ。

判決の主な内容
鞆の浦埋め立て差し止め
 鞆の浦の景観について、美しさを備えているだけでなく、文化的、歴史的な価値があり、「国民の尉産となもいうべき公益」と指摘。事業の完成後に景観を復元することはまず不可能で、埋め立てによって周辺住民判が享受する景観利益に重大な損害を及ぼす恐れがあると判断。さらに、道路や駐車揚の整備事業に公共性や必要性は認められるものの、その根拠となる調査や検討が不十分で、裁量権の範囲を超えるため、県知事は免許を交付してはならないと命じた。

鞆の浦埋め立て・架橋計画
 交通渋滞の解消などを目的に鞆港の浜を約2ヘクタール埋め立て、江戸期の港湾施設の常夜灯や雁木などが残る港内を横断する長さ約180メートルの橋を架けて県道を整備し、駐車揚やフェリー埠頭(ふとう)を造る。船の修理場だった焚揚の遺構の一部が埋め立てられる。


開発自重 欧州の潮流
「道路を造って橋をかけて渋滞をなくせば幸せになるかというと、そんなことはないでしょ」。鞆の浦で「ポニョ」の構想を練った宮崎駿監督は、判決後の記者会見で語った。当座の利便を追い求めるより景観を守った方が、長い目で見ればみんなが幸せになれる。景観権の考え方を示すたとえだ。
 さらに、今は損するかもしれないけど、この方がいいから、と言ってくれる人たちが政府の中心になってくれないかな、と前から夢見ているんです」。これまで公共事業一辺倒だった国の方針転換に、政治家がリーダーシップを発揮することを期待した。
 地元は賛成・反対で長く二分されてきた。しかし実は、国土交通省はこの事業につい
ては前政権時代から必ずしも積極的ではなかった。広島県からの埋め立ての認可申請は、住民提訴から1年以上たった08年6月。国交省は通常2カ月前後で完了する手続きを先送りしたあげく、今年1月、「住民同意ではなく、国民の同意を取り付けてくれということ。その過程で当然、見直しもあるんだろう」 (金子一義前国交相)として、認可しなかった経緯がある。
 9月17日、前原誠司新国交相への引き継ぎで、金子前国交相はこう言い残した。 「八ツ湯ダムは攻守を替えて(議論を)やることになるでしょう。大事な歴史をもつ鞆の浦はぜひ残していただきたい」
 国交省には昨年10月、反対派住民から、鞘の浦の世界遺産登録を目指す国内外の約10万人分の署名が持ち込まれていた。候補地を調査するユネスコの諮問機関「国際記念物遺跡会議(イコモス)」も、05年に続き、昨年も議会で埋め立て・架橋計画の中止を求める勧告を決議していた。
「ポニョ」の舞台として、知名度も上がった。自公政権下でも、世界の目からみた「鞆の浦」を意識せざるを得ない状況にあったのだ。

「多少の不便はあっても住民が暮らしながら、世界遺産に登録されて歴史や文化を守り観光資源にしている場所が、欧州には多い」と、日本イコモス国内委員会事務局長の矢野和之さんは指摘する。
 例に挙げるのが、イタリア南部の地中海に面した交易都市だったアマルフィだ。切り立った絶壁と入り組んだリアス式海岸が、97年に「アマルフィ海岸」として世界遺産に登録された。急斜面に張り付くように広がった町並みは急な坂と細い道が巡らされ、メーンの通りしか車が入れない。
 一方で、ドイツ東部ドレスデンのエルベ渓谷は04年に世界遺産に登録されたが、渋滞緩和を理由にエルベ川流域に新たな橋の建設が進められると、今年6月に登録を抹消されている。

権利認定 長い道のり
 近年、金国的に大きな流れとなりつつある景観保護。しかし、そこに至る道筋は平坦ではなかった。鞆の浦訴訟の判決は、景観問題に取り組んできた関係者に力を与えた。
 万葉集にも詠まれた和歌山市の景勝地・和歌の浦に和歌山県が建設した車道橋の是非が争われた「和歌の浦景観保全訴訟」は、住民が初めて「歴史的景観権」を正面から掲げたとされる裁判だった。和歌山地裁は94年、知事に建設費などの返還を求めた住民らの訴えを棄却。判決は歴史的景観の存在を認めながらも、「法律上の具体的権利とは認められない」とした。
 原告団長だった薗田香融・関西大名誉教授(80)は今回の鞆の浦訴訟の判決について「自分の努力が報われたようだ」と喜ぶ。
 弁護団長だった山崎和友弁護士(67)は、94年の判決が歴史的景観権を「権利として保護に値する程度に成熟しているとは言いがたい」としたことから、 「当時から、いつか認められる時が来ると思っていた。権利として定着させるには取り組みを続ける必要がある」と話した。
 その後、景観保護の流れを加速させたのは、06年3月に最高裁判決が出た東京都国立市のマンション訴訟だ。
 街路樹の美しさで知られる「大学通り」沿いに建てられた14階建てマンションをめぐって地元住民が「景観が壊された」と上層部の撤去などを建築主らに求めた。判決は、「景観の良い所の近くに住んで日常的にその恵みを享受している人は景観侵害に密接な利害関係を持つ」と認め、景観を享受する利益(景観利益)は「法的保護に値する」とした。
 今回の広島地裁判決は、景観利益を認めた国立マンション訴訟の判決を踏襲。住民側の請求を全面的に認め、知事に埋め立て免許の交付をしないよう命じた。
 原告側代理人の一人、日置雅晴弁護士は「景観利益を重視し、実際に住民を救済した点で、国立訴訟からさらに踏み込んだ」と評価する。
 最近では、建設が進む超高層マンションに対し、浅章寺(東京都台東区)や周辺住民が先月、東京都を相手取って容積率の割り増し許可などの取り消しを求める訴訟を起こした。原告団の白田信重さん(43)は「浅草寺の境内からの景観は鞆の浦と同様に国民の財産だという主張を強めていきたい」と語った。

「公共事業へ影響大」国交省幹部
 国土交通省には、今回の判決の影響に懸念もある。公共事業見直しに積極姿勢の前原国交相も「判決の方向性に共感するところも多々ある。しかし、それは司法が判断することなのかどうかを含めて、高裁や最高裁で司法がどう判断を下すか、推移を見守っていきたい」と慎重な構えだ。
 同省幹部の一人は「高裁、最高裁でも判例として固まれば、公共事業への影響は大きい」と心配する。一方で「住民の利便性の向上と景観の価値を比べた時、鞆の浦では景観に特別の価値があったということ。世界遺産に推すほどの価値のある景観が、あらゆる公共事業の現場に共通してあるわけではない。一般化していくかどうかは別問題だ」と冷静に受け止める。
 都市問題ジャーナリストの小川明雄さんも「鞆の浦ほど景観が問題になるのは特殊ケース」と認める一方で、 「ダム事業などでは費用対効果の悪さが中止の理由に挙けられるが、鞆の浦のケースでは『歴史的景観の保護』という名目も新たに加わった。事業を止めうる要素が今後も増えていく可能性が出てきた」と話す。


【以上転載】

***

 景観権っていうのは非常に難しいですね。
 最近だと、記事にもあるように、東京都国立市のマンション訴訟なんかが記憶に新しいですし、むかし京都ホテルが建て替えをするとき、京都仏教会に加盟する寺院が京都ホテルに宿泊している連中に対して参拝拒否したなんてこともあります。
 京都ホテルの立て替えの時は丁度俺が小学校の修学旅行で京都に行っていた時期で、寺の入口に参拝拒否の看板が立てかけられているのを不思議に思って眺めていたのを良く覚えています。そんな看板に気付いた小学生は俺ぐらいしかいないと思いますがw

 今回の訴訟はなかなか面白いんじゃないかと思います。景観権だけで話を進められないでしょう。俺なりに1つずつ考えてみます。多少誤解があるかもしれませんが。

 まず、そもそもどうして道路を造る必要があるのか。
 これは単純な話、道が狭いからでしょう。古い町並みのままで、区画整理も十分にできていないと思われます(する必要があるかどうかは問題にしませんが)。
 田舎暮らしに車は必須なので、道が狭いと困ります。じゃあ現在の道幅を広げればいいわけですが、これはなかなか難題です。道路拡張するには地元商店街やら住民やら、はたまた議員やらの激しい攻撃に合いますし、土地収用のための費用もかなり掛かります。
 じゃあ手っ取り早くどうするかというと、あまり人が住んでいないような場所に新しい道をつくればいいわけです。古い都市にありがちですが、昔ながらの旧道が歩道無しの片側1車線道路のままで、それに並行して新道が旧道のバイパス的に走っているものがよくあります。これは、旧道を拡幅するよりも新道を新規に作った方が色んな面でメリットが大きいのでしょう。

 で、今回も旧道を拡幅するのではなく、新道をバイパス的に作ろうということになって、その行き場が海だったわけです。裏の山に作るよりは海に作った方がメリットが大きかったのでしょう。ところが、今回はたまたまその海が、万葉集だか何だかに出てくるような、今では珍しい光景が見られる海だったわけです。

 正直、俺もこの海の写真を見ると、「なかなか趣があっていい感じだな」と思うわけです。道路建設によって現在の景観が損なわれてしまうのは惜しい気がします。だからといって必ずしも道路建設に反対かというわけではないんです。

 そもそもこの町は誰のものなのか、という話です。
 当たり前ですが、この町に住む人のものです。この町で住んだり、生計を立てたりしている人のものであるはずです。実際俺は道路建設反対派と賛成派の比率は知りませんが、そこの住民が「道路が欲しい!」と言ってるのであれば、道路を造りゃいいんですよ。

 地元の人間は毎日そこで生活して生きているわけです。一方、観光目当てで来る連中は、一生に一度来るか来ないかの有象無象の連中です。なんでそんな連中のために不便を強いられんといかんのだと。

 こないだまで何にも知らなかったくせに、ちょっとポニョの映画をみて、「ここがモデルになったんですよ!!」と言われるだけで、「ポニョの海を守れ!」とかなんとか言い出すなんて、どんなけ平和な頭をしてるんですかねw
 しかもそういう連中に限って車でやってきては「道が狭い」だの「駐車場がない」だの文句を言うんですよ。それでいてただでさえ狭い道で渋滞起こしたりなんかしてね。
 ホントに迷惑甚だしい連中です。

 この宮崎駿というオッサンは、トトロにしてもポニョにしても、自然をテーマにした作品を結構描いていて、よく自然保護団体とつるんで「トトロの森を守れ」だの「ポニョの海を守れ」だの言っているわけです。別にそれが悪いとは言いませんが、道路建設賛成派からしてみれば、もうちょっとで新しい道路ができるところだったのに、迷惑甚だしい映画だと思いますよ。
 やたら映画が当たるのも、モデルになった場所からしてみればありがた迷惑な話ですね。「耳をすませば」のモデルの聖蹟桜ヶ丘の周辺住民は迷惑してるらしいですよw

 そんな話はさておき、地元住民を抜きにして外野がワイワイ騒ぐのはおかしな話だと俺は思います。
 自分は何もしないくせに、言いたい放題文句を付けるのはいただけません。「じゃあお前がカネ出せ、馬鹿野郎」と思うわけです。環境保護団体なんかは、経済的効果や社会的影響を全く考えずに、とにかく環境やら景観さえ守ればいいというスタンスで迫ってきますし。
 景観を守りつつも交通の不便を解消するというという意味で、海に橋を架けるのではなくて、海中にトンネルをつくるというのも案の中にあるみたいですが、それもカネが無くてはできませんからね。口を出すなら金も出さないと話は通りませんよ。

 まあ、今回の騒ぎがキッカケになってトンネル化の予算が付けば結果オーライだとは思うんですが。この景観が後世に残るべき「国民の財産」であるというのであれば、広島県からじゃなくて国からも金が出るでしょうしw

 そのうちここの港も本格的に観光地化されて、何の変哲もない饅頭を「ポニョ饅頭」と称して売ってるような港町になるかも知れませんねw

PageTop

残業

 生々しい話をするのはあんまし好きじゃないけど、まあ俺のブログなのでこういう話を書いても良いでしょうw

 昨日、大学の同級生と電話する機会がありました。その人は非常に優秀な女性で、税務屋さんをやってるそうです。
 最初に俺が電話したのが10時過ぎだったんだけども、「まだ電車の中だから出れない」と言われて、11時頃にかけ直しました。
 そんな時間まで新卒女性社員を働かせるのはいかがなものかと思うんだけど、「毎日これぐらいまで残ってる」そうで、家に帰ってもずっと仕事の勉強をしているそうです。

 俺の仕事が格段ラクだというわけでもないけど、さすがにそんな働き方はできんなー、と思いました。頭では分かっていたけども、こんな働き方をさせてたんじゃあ少子化になるのも至極当然の話だなぁ、と。

 彼女の会社は「最初から残業代が80時間分ついてる」らしいです。超過した分は翌月精算するそうで、残業代だけで10万以上のゲタ履きがあるということです。

 かたや俺は、今年に入ってから今日までで残業累計が100時間ちょっとぐらいなので、全然レベルが違うんでしょうね。でも俺の感覚で行けば「これぐらいが丁度良い」んですよ。平均すると6時半ぐらいには出て、7時半には家に帰れる。なんという幸せな生活。
 それぐらいに家に帰らないと自分の時間に余裕を持てないですからね。贅沢な話かもしれんけど。こないだの学生時代まで、朝7時に寝て夕方5時に起きるような昼夜逆転生活をしていたような身からしてみるとこれでもなかなか辛いものがあるんですがw

 大卒事務職の初任給が大体20万前後だと言われますが、残業の有無で所得そのものはだいぶ変わってくるんでしょうね。
 我が社の俺の同期でも、月間残業(休日出勤含む)が100時間以上のヤツもいて、新卒なのに手取りが30万以上だって聞くので、いつか俺もそこに配属されれば同じような所得と生活が待ってるのかも知れませんし、どんなに給料が高かろうとそんな部署には回されたくないなと言うのが本音です。さらに本音を言えばこんな仕事は早く辞めて転職したいというねw

 残業代を稼ぐために残業しているような先輩の話を以前に書きましたがw、時間をカネで売るのも考え物ですね。

PageTop

善人は、なぜまわりの人を不幸にするのか

善人は、なぜまわりの人を不幸にするのか (祥伝社黄金文庫)
曽野 綾子 (著)
出版社: 祥伝社 (2009/8/29)
ISBN-10: 4396314949


 つねづね偽善者に対して懐疑心を抱いているので、本屋でパッと目に入ってしまって、買ってしまったというわけです。
 買ってまで読むような本ではないかと思いますが、なかなか面白い部分もあったのでいつものごとく勝手に載せますw この本は作家の曽野綾子(三浦朱門の妻)が書いた小説なりエッセーなりの抜粋を集めたものです。いわばこの記事は抜粋の抜粋です。

***

 善人は自分勝手に幸せになるけれども、まわりの人は不幸になることがあるの。善人は自分に自信があるから困るんですよ。人の心がわからなくて、自分が善人であることにあぐらをかいているから。

***

 いつの間にか、私たちは、親切な人間がいい、と考えるようになった。もちろん、その原則は今も変わらない。他人が困っているのを見捨てるよりは、救う方が美しいに決まっているからである。
 しかし善意だけあれば、それで世の中は通ると考えたら、それはまた大きなまちがいなのである。善意の半分くらいは確かに人を救うが、残りの半分は迷惑をかけるのである。
 その一つのタイプに情の厚い人間がいる。そのような心根の人は、すぐ他人に同情する。同情して手を貸す。このことじたいは決して悪いことではない。しかしこのような手の貸し方が、ことの本質を少しもはっきりさせず、そのことを自ら解決しなければいけない当事者に甘える気分を起こさせることも本当なのである。
 模様が下手くそで、配色がおかしくて、技術が悪いアフリカの刺繍には時々まいることがある。そういう刺繍が日本の教会では、バザーで売れるなどという幻影を抱かせることは、過剰な親切でよくないと思う。売り物にならない技術だということを、はっきりわからせることが、むしろ本当の親切である。アフリカの人に差別を抱かず平等に付き合う、というのなら、こんな下手な刺繍はだめよ、とも言えなければならない。

***

 幼児性はものの考え方にも、 一つの病状を示すようになる。理想と現実を混同することである。この混同は、自分がその場に現実に引き出されない限り、それが嘘であることが証明されない、という安全保障を持っている。
 1994年のルワンダのフツ族によるツチ族の虐殺の時、あるフツ族の老女は、自分の娘がツチ族の男性と結婚して産んだ孫を殺した。「お前が本当にフツ族なら、ツチ族の血の入った孫を認めるわけがない。もし殺さないなら、お前を殺す」と言われたからであった。
 こうした実際にあった話を前にして、自分はこういう場合にも絶対に幼児を殺すことはしない、と自信を持てるのが幼児性である。「もし仮に自分が……であったなら」という仮定形になかなか現実の意味を持たせられないのが幼児性なのである。
 結果的に幼児性は相手を軽々と裁く。これも大きな特徴の一つである。それは、人間というものはなかなか相手を知り得ない、という恐れさえ知らないからである。あるいは自分もその立場になったら何をしでかすかわからない、という不安を持つ能力に欠けるからでもあろう。
 一方、幼児性は、社会と人間に対して不信を持つ勇気がない。不信という一種の不安定でおぞましい、しかし極めて人間的な防御本能を駆使することによって、初めて私たちは一つの信頼に到達することができる。したがって信じるまでの経過には、私たちの全人的な人間解釈の機能が長期間にわたって発揮されるわけだ。
 普通の場合、私たちは見知らぬ人、名前は知っていても個人的にその言動にふれたことのない人の生き方を信じる何の根拠もない。しかし幼児性は、さまざまな図式によって、人を判断し、それを信じる。その図式も時代の流れに動かされる。有名なら信じる。金持ちは悪人で、貧しい人は心がきれいだ。反権力は人間性に通じる、という具合だ。現実は、そのどれにもあてはまる人とあてはまらない人がいる、というだけのことだ。
 幼児性はオール・オア・ナッシング(すべてか無か)なのである。その中間のあいまいな部分の存在の意義を認めない。あるいは、差別をする人とされる人に分ける。しかしあらゆる人が、家柄、出身、姻戚関係、財産、能力、学歴、その他の要素をもとに、差別をされる立場とする立場を、時間的にくり返して生きているのである。ただこの世ですべての人が、それぞれの立場で必要で大切た存在だということがわかる時だけ、人間は差別の感情などを超えるのである。
 平和は善人の間には生まれない、と或るカトリックの司祭が説教の時に語った。しかし悪人の間には平和が可能だという。それは人間が自分の中に十分に悪の部分を認識した時だけ、謙虚にもなり、相手の心も読め、用心をし、簡単には怒らずとがめず、結果として辛うじて平和が保たれる、という図式になるからだろう。つまり、そのような不純さの中で、初めて人間は幼児ではなく、真の大人になるのだが、日本はそういう教育を全く行ってこなかったのである。

***

 私たち現代人の多くは、まさにこの反対である。「人道的なことを言いながら現実の行動としては何もせず、気が小さいので世間の波に乗って反対することが市民の権利だと思い、芯からしみったれなので公金を平気で使い、おせっかいなので知りもしない他人の行動を批判し、冷淡以上に無関心で、徹底して人生に対する好みがなく体制におもねり、自分の意志を表す勇気は全くなく、そしてなによりどこにも欠点がないようでいて実は何一つとして積極的ないいことはしない人物ばかり」なような気がする。

***

 最近の恐ろしさは、法に触れない程度の悪人になる自由も残さないことだ。新聞記者用パソコンにしかけられた差別語漢字変換拒否と同じ形の規制である。悪事を働くことができないように法で規制すると、世の中が善人ばかりになるかと言うと、全く反対で、自分で判断するのを辞めたつまらない人間が増えるだけだ。善悪の選択こそ、輝くような個性の存在の証であるべきだ。

 差別語をいけないというのはおかしいと私はずっと思い続けてきた。私たち作家は、時には悪い言葉を使って作品を書く必要があるのである。喧嘩の場面を書く時には「バカ」とか「でき損ない」「デブ」「ブス」「スケベ野郎」などという相手を侮辱する言葉がなければ喧嘩にならない。
 それを使ってはいけない、ということ承認し、おろかなことに「申し合わせ」や「社内規定」などで使わない言葉を決めた新聞社こそどれだけ自由を阻み、思想の画一と統制に加担したかわからない。
「報道、表現の自由」を新聞が担ったなどと、どうして言えるのだろう。悪い言葉を使わせない、というほど、ひどい言論弾圧はない。差別語を使って差別的な態度を示すという悪事を働くのが表現である。
 読む人は当然それを批判するだろう。そういう書き方をする作家の書くものを以後読まないと思うかもしれない。選択の自由は許されているのである。

***

 私は今でもたくさんの社交的なメールが来たら、それにどうして返事をするのかよくわからない。おざなりの同文で返事をすれば、相手は決して満足しないだろうし、いちいち心をこめた返事を書いていたら、それだけで人生は終わりになる。メールが人との交際を広めるというのも果して真実なのだろうか。顔もものの考え方も知らない人と、仲よくできる人もいるだろうが、できない人もいる。知らない相手とでもすぐ仲良くなることがいいとする人と、知らない相手とは仲良くなる方がヘンだ、と思う人とは、どちら正しいか正しくないかの問題ではない。どちらにも理屈があって、一朝一夕には決められないことである。殊にインターネットは右肩上がりならぬ人間関係の拡大賛美型の思考に凝り固まって、皆と仲良くすることがいいのだ、と最初から想定している。しかし人間の中には孤独を求める大切な志向もあることはほとんどその認識の中に入れていない。

***

 彼女は本能で知っていた。愛の本質は、相手が望んで決定したことを支持することだということである。その中で自分の存在が役に立つと思えばそこにいるが、相手にとって自分がいない方がいいと考えれば、去って行くのである。
 昔はそれを「身を引く」という極めて日本的な表現で表した。身を引くことは辛いことであった。人間は誰でも愛する人と一緒にいたい。しかし自分はどんなに辛くても、愛する人が現世で生きるべき道を全うするなら、それは悲しくても、どこかで満たされているのである。

***

 ハチミツ入りや減塩の梅干、甘くないケーキなどはすべて最近の、いじましくて小狡い世相や人間の態度を反映しているように私は思う。つまり社会の誰からも悪く言われたくないのだ。酸っぱいということは一種の激烈さである。それが梅干の使命である。その力によって殺菌ができた。コレラも梅干があれば怖くない。しかし目的が明快なものは、一面で欠ける所が出てくる。それが怖くて特徴までなくそうとする。だから「地球に優しい」人や「部下に優しい」上役ばかり求められ、ついでに酸っぱくない「舌に優しい」梅干や、「高血圧でも食べられる減塩」梅干が出現する。
 酸っぱさや塩辛さが身にしみる商品があった時代には、人々は誠実で正直だった。ガミガミ親爺は自説を曲げず、自分の店の商品と質と伝統を一生かかって守り抜く頑固一途の商人がいた。誰にでも合うことを売りもののフリー・サイズの衣服は、つまり、誰の体型にも合わない、という鉄則があるように、誰にも食べられるようにした加工食品というものは、最初から誰も本当には好かない。


***

 日本の戦後教育が果たさなかったものは、善か悪かではなく、多くの場合、善と悪がまじり合った不純な選択以外にあり得ないという大人の判断を養うことであった。現世に悪の要素がなくなることはない。もちろん善の気配が消えることもない。しかし善だけだったり、悪だけだったりするものもない。要はどこで妥協するか、ということなのだ。もちろんでぎるだけ、いい地点で折り合うことが望ましいのは言うまでもない。
 いい大人までが、理想論でものを言う。それをほんとうは幼稚と言うのである。私たちは理想を目指す。しかし現実は決して理想通りになり切れないことを知っている。そこから、ためらいも、差恥も、寛大も、屈折も、悲しみも、許しも知った大人の感覚が生まれるのである。
 教師は立場上、こうした不純で、それゆえにこそ成熟したふくよかなものの見方を教えにくい。しかし父や母なら教えられる。こうした話は、家庭という誤解を恐れる必要のない気楽な密室的な場で、食事の時や風呂の中で話すのに適した話題なのである。

PageTop

平和ファシスト

 【前回】の記事に関して、ちょっと追加です。

 本人の公式サイトに、もう少し踏み込んだ記述があったので載せてみます。
 転載元は http://www.tamogami.sc/troom/ です。


広島の原爆慰霊祭について

 8月6日は昭和20年(1945年)に広島に原子爆弾が投下され多くの人が亡くなった日です。この日広島では毎年総理大臣も出席して被爆者への慰霊祭がしめやかに開催されています。すでにご案内の通り私は現地の方々の要請を受けてこの日の夕方広島市で講演を実施することになりました。現地に入って慰霊祭に関する説明を受けて驚いたことが一つありました。多くの日本国民は、広島の被爆者の方々及びその家族などが大勢集まって慰霊祭をやっていると思っていることでしょう。全然違うのです。

 慰霊祭の参列者の中には広島市民も被爆者やその家族の方々もほとんどいないのです。それでは誰が参列しているのでしょうか。それは全国からバスなどで集まってきたある種の思想を持った人たちなのです。大部分は広島の被爆とは全く関係のない人たちが参列しているのです。平和学習と称して日教組の先生方に引率された小学生や中学生もいっぱい参列しているそうです。こういった事実はテレビや新聞でも全く報道されません。

 NHKなど日本のマスコミは何故真実を報道しないのでしょうか。誰が参列しているのかを知ったら、日本国民のあの慰霊祭に対する感じ方は全く違ってくるはずです。マスコミは慰霊祭の最も根幹になる部分を隠蔽しているのです。数人の広島市民の人たちが、あの慰霊祭について苦々しく思っていることを私に話してくれました。私も実は8月6日に広島入りするまではこの事実を知りませんでした。そうなんです。広島の原爆慰霊祭は、実は核廃絶の政治運動なのです。全国から集まってくる人たちへの支援金は一体どこから出ているのだろうなどと思わず考えてしまいます。

 広島市民の方が言っていました。8月6日の前後は広島市は異様な雰囲気に包まれるそうです。核廃絶以外の意見が公式には全く言えないような状況になるようです。そういう意味では今回の私の広島講演は、民主主義社会における当然の権利である「言論の自由」の確保に一定の効果があったのではないかと思います。しめやかな慰霊祭の隣で核武装発言をすることが如何に場違いであるかと思っていた人も、少し考えが変わるかもしれません。慰霊祭の真実が分かると総理大臣の参列なども必要なのかどうか考えてしまいます。8月6日に広島で講演をすることが出来て本当に良かったと思っています。


***

 この記事で俺が一番気になるのは最後の段落です。
「広島市民の方が言っていました。8月6日の前後は広島市は異様な雰囲気に包まれるそうです。核廃絶以外の意見が公式には全く言えないような状況になるようです。そういう意味では今回の私の広島講演は、民主主義社会における当然の権利である「言論の自由」の確保に一定の効果があったのではないかと思います。」というのは全く持ってその通りだと思うんですよ。

 毎年8月に入ると、お約束のように「火垂るの墓」を流したり、当時の写真が新聞に載ったり、原爆特集が組まれたりして、日本国内が懐古ムードに包まれ、最後は「平和は大事だと思った」「戦争はいけないと思う」と口にしなければならないオチがついて回っているわけです。

 その主張自体がいけないわけではありませんが、その類の発言以外が認められない状況、許されずに排除される状況、記事で言えば「核廃絶以外の意見が公式には全く言えないような状況」というのは、やはり不健全だと思うんですよ。もはや民主主義社会ではない。

 戦前に「戦争戦争!」と口を揃えて意気を鼓舞していた日本人が、現在、異口同音に「平和平和!!」と唱えているのをみると、根本的な部分が何も変わってないんじゃないかと思うわけです。内容の是非はともかくとして、「今度の戦争では負けないように日本も核武装しよう!」という意見があってもいいと思うんですよ。

 どうも日本人はファシスト気質があって、8月になると「平和ファシスト」になるんですねww

PageTop

広島平和祈念式@たもがみ

 今日の朝日新聞にこんな記事が載っていました。
 私がこの記事に関して色々と言及した場合、以前あったように、頭のイカレた極左や極右の方々が粘着しに来るかも知れませんので、記事を紹介するに留めます。

***

広島平和記念式「被爆者ほとんどいない」田母神氏が演説 2009年8月24日21時30分
http://www.asahi.com/national/update/0824/OSK200908240105.html


 田母神(たもがみ)俊雄・元航空幕僚長は24日、堺市で衆院選大阪17区に立候補している改革クラブ前職の応援演説に立ち、今月6日の広島原爆の日に広島市で開かれた平和記念式について、「被爆者はほとんどいない」「並んでいるのは左翼」と述べた。被爆者団体は反発している。

 田母神氏は演説で、6日に講演で広島市に行ったことに触れ、平和記念式について「並んでいる人は広島市民も広島県民もほとんどいない」「被爆者も、被爆者の家族もほとんどいない」と発言。「左翼の大会なんです、あれは」とし、麻生首相が式であいさつしたことを「マンガです、ほとんど」と評した。

 式は広島市主催で、市によると、今年は約5万人が参加。被爆者やその遺族、家族用の約2500席はいっぱいだった。一般席にも被爆者がいた。市幹部は「市民、県民もたくさん参列した。事実誤認も甚だしく、コメントに値しない」と言う。

 式に参列した広島県原爆被害者団体協議会の坪井直理事長は「虚偽の発言であり、許し難い。平和記念式への中傷であるだけでなく、講演活動を続ける田母神氏自身、信頼を失うのではないか」と話している。

 田母神氏は式には出ていない。同氏は朝日新聞の取材に、発言の根拠について「広島の知人がみんなそう言っている」と説明した。

 6日の広島市での講演で田母神氏は、核廃絶に取り組むとした広島市長の平和宣言を「夢物語」と批判し、持論の核武装論を展開した。(岡本玄、武田肇)

PageTop

規模

 俺がよく行くラーメン屋がいつの間にか有名店になってしまって、いつも長い行列を作っています。こないだ俺が食べに行ったときには、俺の前に数人並んでおりました。更に俺の後ろにも数人並び始めました。
 俺の数人後ろには学生っぽいのが2人並んでたわけですが、数分経ってから更に2〜3人そのツレがやってきて、当然の如く列に割り込んで一緒に並んでいました。
 俺の後ろの話なので、俺には関係ないと言えば関係ないんですが、小さなラーメン屋なので順番が1人ずれ込むと結構時間が変わってくるので、仮に俺がもっと後ろにいたらきっとキレてるだろうと思ったわけです。そもそも、カウンターしかないようなラーメン屋にグループで来るのはいかがなものかと思ったりもしますがw
 その店は地域的な問題もあって客層が悪い上に、そもそもラーメン屋に来るような客にマナーを求めるのはお門違いかも分かりませんが、せめて自分らの直後の人たちには「あとから3人来ますんで」の一言ぐらいあってしかりなのではないかと。

 さらにその後、今度は俺の前に並んでるやつのツレが2人ほどやってきて、これまた当然のように列に割り込んだわけです。
 その段になってやっぱりこれは絶対に許せんと思ったんですが、列に割り込むことに対する法的な規定も罰則もないしw、店のルールとして割込禁止を謳っているわけでもないので、俺が騒ぐのは筋違いだと思ったんですね。
 更に言えば、俺はその店にはほぼ1人で行くのでそういう問題はないですが、他の店なんかだと車で行って、運転手の俺が一人だけあとから来るということもたまにあって、そういうときは俺が車を止めている間に先に列で待っててもらって、あとから俺が列に割って入るなんて言うこともあるので、あんまり他人のことは言えないんですよ。

 それでもやっぱり気にくわないので、後からそのラーメン屋に電話をしまして、「割込可能なのか、割込禁止なのかハッキリ書いといて」と言ったところ、後日、店の入り口に「グループでお越しのお客様は、全員が揃ってから最後尾に並んでください」とちゃんと貼ってありました。
 いやー、偉いですねw そういうことをちゃんと書ける店は偉いと思います。しかも迅速に。レストランよろしく名前と人数を書いてもらう方法もあるかとは思いますが、たかがラーメン屋でそんなことをするのはどうなんでしょうね。

 俺も仕事柄いろんな苦情を受けるわけですが、うちは規模が大きいからなのか、事なかれ主義だからなのか、どうも動きが遅いんです。
 何か行動を起こそうと思っても、まず先輩に聞いてみて、係長にお伺いを立てて、それでもダメなら課長に聞いてみて、という具合にどんどん上に上げていくうちに、面倒くさくなったり、どうでもよく思えたりして話がうやむやになってしまいます。俺自身で責任をとれないので仕方ないと言えばそうですが、動きづらくて仕方がないなというのが正直なところです。
 仕事をしていてよく感じるのは、多くの人間との間で調整をつけるのは非常に難しいな、ということです。自分だけのことならすぐに決めてすぐに行動できますが、多くの人間が絡むと手も足も動かせないんですね。効率が非常に悪い。融通の利かない制度やらシステムの間で、身動きが取れないわけです。やはり組織の規模は小さい方が自治性に恵まれますね。

 ところで、こういう俺の話を聞くと、すぐにクレーマーだの何だの騒ぐアホがいますが、これのどこがクレームなのかと。裏でグチグチ文句を言うよりも、よっぽどいいと思いますよ。日本人はファシストなので、何かちょっとでも文句を言おうものなら変人扱いしてクレームクレームって言いますねw
 まあでも訳の分からんクレーム電話(というかワガママな主張やらただの愚痴)に悩まされることは俺もよくありますがw


***

 全然関係ない話を一つ。

 中学校の頃、あまり背の高くないK君っていうのがおりまして、医者の息子であるE君(彼自身も今は某私大医にいます)に、「お前の父ちゃん医者なんだから、どうしたら背が大きくなるのか聞いてきて欲しい」と頼んでいました。

 次の日、
E:「聞いてきてやったぞ。『俺は小さかったけど、めちゃめちゃ女にモテたぞ!』ってさw」
K:「そんなのお前のオヤジの自慢じゃねぇか! 全然答えになってないじゃん。俺はもっと医学的な話が聞きたかったんだよ。何を食べたらいいのかとか」

 という会話が交わされました。
「背の大小なんていうのはどうでもいいことだ」と伝えたかったことが、果たしてK君に分かったかどうかは分かりませんが、直接的な言葉で伝えない(そしていかにも自慢クサさが漂う)ところがE君の親父らしい言い方だなぁ、と感心したものです。

 衆院選が近づいてきて、ふとこんな話を思い出してしまった今日この頃。

PageTop